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2014年10月例会


10月15日(水)。上尾文化センターにてキソー工業株式会社の代表取締役で神奈川県中小企業家同友会理事・青年部会長を務められる鈴木幹男氏にご足労いただき
「事業承継覚悟と課題と現状」
をテーマに10月例会を開催しました。


鈴木氏は埼玉県富士見市の生まれで、お父様の転勤で小学校1年生のときに仙台市移られた後、高校卒と同時に上京。勉強をされていなかたとのことで、社会人向けの夜学に進学されました。
昼は機械のオペレーターとして働きながら卒業を向かえ就職を考えるのですが、当時はバブルの崩壊直後で学校には就職の募集が来ない状況。それでも「仕事をしないわけないはいかん」ということで探していると、新聞に東京同友会が開催する合同企業説明会の広告が大きく掲載されていました。そこの会場にあった神奈川同友会の競争求人パンプレットを読んだところ、キソー工業だけがご自身のやりたかった、開発・設計に対して学歴を問わないという応募条件が一致したことで、入社に至ったとのことです。

親御さんも招かれるという暖かみのある入社式でスタートを切られ、半年間の現場研修を経てトレーサーという図面を描き直す仕事に就きました。当時はCADに移行しはじめた時代で手描きの図面をコンピュータに入れていくことで図面に慣れ、先輩たちの仕事を手伝いながら技術力も高めていき、3年後にはシュリンクラベル装着機の設計を任されるようになりました。後に300台以上出荷することとなる現主力機の第1号機です。
入社9年目には技術部全体の管理を任せられ、行程会議に出席するようになったのですが、その前年頃から創業社長が体調を崩し療養に入っていました。

 

創業社長の信念
キソー工業を創業された初代社長、技術部長、工場長は元々同じ会社に勤めていました。しかしその会社は上層部に親族が入ってきたことで会社経営がおかしくなり、結局は解散してしまったのです。その経験を踏まえて創業社長は、自分が立ち上げる会社に「親族は絶対に入れない」という強い信念で起業しました。
後に総務部長、営業部長が加わり、この創設時の5人が幹部となります。創業社長は非常に理念に燃えた人物であり、とても勉強家だったため、社長をトップとして下の4名は「(創業社長に)人生を教えてもらった」「この人に絶対ついていく」と神髄していました。
事業が順調に発展していく中、創業社長が体調を崩されたこともあり、平成16年に工場長が2代目社長に就任します。
2代目社長は就任当初から創業社長に対して「株をどうするのか」という話をずっとしていました。
しかし株問題については何の進展もないまま平成18年6月に創業社長が52%の株式を所有したまま他界されてしまいます。
創業家との確執
創業社長が亡くなられたことで株の処遇が問題となるのですが、遺言書には
「株の処理は顧問会計士と相談するように」
という一文が残されていただけした。

そこで顧問会計士は創業家(奥様・長男・長女)の3名との間に立って折衝に入ってくれたのですが創業家側からに解任されてしまいます。
株式52%を保有していると
・取締役及び監査役の選任・解任
・報酬の決定
・決算書類の承認
・自己株式Iの取得
・解散請求権
定款変更など特別決議までは行きませんが、ある程度なんでもできてしまい、相当な影響力を持つことになります。
創業家側は弁護士を代えて株の買い取り、もしくは経営への参入を要求をしてきたのです。

そして、株主総会を開催し決議に参加させることも強く要請してきました。
工場、建物、加工機械といった資産価値が全て株式に反映されるため、株の買取には億の資金が必要となります。
一方、経営管理を認めるかとなると、もの作りをやったことのない。経営もしたことがない。理念の提示を求めても提示ができない、というような人に経営権を渡すわけにはいきません。 ということで残された4人の経営陣の苦悩がはじまったのです。

 

幹部の苦悩
創業社長が「絶対親族を入れない」という強い信念の基に立ち上げたにもかわらず株の処理を疎かにしてしまったために、その家族に苦しめられるになるとは。後に4人の幹部は「社長にはうらぎられた」と言うようになりました。
そんなある日、総務部長が脳梗塞で倒れてしまいます。株問題の心的ストレスが原因だったのかもしれません。
総務部長が抜けたことで、会社の指示系統が一切ストップしてしまうのですが、その頃から自分達でやっていかなければいけないだろうと意識が変わってきたようです。
しかし、このようなごたごたが続いているときに起きたのがリーマンショックです。受注が激減して株の問題も解決しないため。2代目社長は廃業も視野に入れていました。
幹部達の苦悩が続く中、2代目社長、営業部長、技術部長、コンサルタント2名と鈴木氏とで弁護士事務所に行くことになりました。
弁護士から「まずはキソー工業の人達とだけ話をしたい」と言われたため、コンサルタントの2名は外で待つこととなりました。

4名は弁護士と対面して、
「自分たちも精神的に追い詰められているのです。
ごたごたが続いている状態を早く解決したいので、私どもも創業家も納得できるような方策はありませんか? 御指南くださいませんか?」
と相談を持ちかけたところ、
「キソーさはどうしたいのですか、金も出さない。経営管理も認めない。弁護士は裁判が起こらないと結局何もしませんよ」
と、けんもほろろに突き返されてしまいます。
悶々としながら話していると、外で待たされていたコンサルタント2名が
「私達も、キソー工業の一員です、なんで会議にいれてくれないのですか」
怒鳴り込んできたのです。
鈴木氏はこのような状態を目の当たりにするのですが、その日は何の答えも出るわけではなく散会となり、会社の人間だけで飲みにい行きました。
当然深酒となり株の話しにもなります。
「会社を社員のために残したいという気持ちだけのために、何故こんな苦労をしなけっればならないのか」
と話しているのを聞いて、鈴木氏も憤りを感じました。そこでも答えが出るわけではなくお酒の席も散会となります。
鈴木氏だけが帰る方向が違うので幹部3人と別れたのですが、3人の後ろ姿を見て
「あんなに大きかった背中がこんなに小さくなってしまうのか」
と思いながら姿が見えなくなるまで見続けたのです。
このとき、
「この姿を絶対に忘れてはいけない」
「俺たちの為にここまでやってくれるのだ。この思いを俺たちも継いでいかなければならいないのではないか」
「そこまでやってくれた先輩達の気持ちに答えたい。この会社を守っていきたい。」
と決意したそうです。

 

社長を引き継ぐ
株の問題は、約3年続きます。
最後は、会社が借金をして全株式を買い上げるこになり、平成21年の1月に株式を買い取りました。
そのころ鈴木氏は技術部だでなく工場全体を見る立ち位置になっていて、2代目社長とよく一緒にお酒を飲んでいました。
でも社長が愚痴をこぼし始めるようになったのです。
「とにかく社長は疲れる」と
社長自身も不孝が重なり精神的にも落ち込んでいたようです。
あんまり愚痴るものだから、お酒の勢いもあり
「社長、そんなに疲れているのなら休んでください。工場のことなら僕でも見ることができるので、とにかく今は休んですっきりしてください。」
と話したのです。
これが3代目社長への名乗りをあげたということになったようで、
「本当にいいのか、やってくれるのか」
と目の前で涙を流して手を握られました。
軽はずみなことを言ってしまたかなと思ったそうですけれど、言ったからにはというのもあり、入社して15年を超えてていて、生き方というものを考えるようになっていました。
仕事は自分の生きる道。
生きる道を自分で選んで、しかも自分がその場から逃げてしまったら後ろには社長しかいない。
その社長に全部押しつけるまねしていいのか。
65歳を超え、そろそろ引退を考えている年代の人にいつまでも頼っていていいのか。
これは鈴木氏にとって非常に格好悪い価値観だったのです。
それと、いずれは事業承継はやってくれるのだが、もし候補者が出なかった場合。
自分が設計して育ててきた製品、お客様、技術を持った社員、みんなばらばらになってしまう。
そんなことになってしまうのは実にもったいない。
40年続いた会社なので、そんなことでばらばらにはしたくない。
まだまだ商圏も製品もお客様もあるのに、そういったものをないがしろにするのはとんでもない。
という思い。
それと、
小さいながらも機械のメーカー。
キソー工業が作った機械を使ってお客様が製品を作って世の中に流通している。
(シュリンクされるのは)身近にあるスーパーに並んでいる商品ばかり。
間接的に社会貢献をしているという自負。
この機械はメンテナンスをしていかないと維持できなくなる。
という企業責任を感じて、
「わかりました。承継問題でいるいないという話だったら、私が継ぎます。」
と社長になる覚悟を決めたのです。
こうして、平成24年の9月。鈴木氏が3代目社長に就任しました。

 

社長に就任して
社長就任後は設計業務を含めた全体業務をやりつつ、唯一経験のいなかった経理業務にも関わり、銀行手続き、社会保険の手続きなどやるようになりました。
非常に不安定な精神状況だったこのときに、同友会の仲間が「がんばれよ」と言ってくれたのがとてもに心強かったとのことです。
前社長と一緒に各部署部署を担ってきた幹部も一緒にやめていました。
営業部は現在一緒に取締役に就任されている後継者がいたのですが、技術部、製造部、総務部については一手に鈴木氏が面倒を見なければいけない状況となってしまったのです。
特に経理は経験が無く。なかなかなかなか覚えられないため経理の方にかかりっきりになってしいました。
これまで培ってきたキソー工業の花形部署は技術部と製造部です。鈴木氏はここから離れざるを得なくなったのです。
同友会で「急激な成長と変革は必ず歪みを起こす」と学んでいたのに、統率をできる人がいない、会社がばらばらに近い状態を作ってしまった感じたのです。
しかし、ここ鈴木氏が離れたとことは、会社にとって大きな変革となりました。

 

悩みからの脱却
3代目社長に就任されて一番苦しんでいたのが、自信への規律でした。
キソー工業は、創業社長も2代目社長も創業メンバーということもあり、ワンマン経営でした。このワンマン経営に社風が慣れ親しんでしまっていたのです。
ですから「言われたら動けばいいや」という指示待ち社員ばかりになっていました。
鈴木氏は同友会で学んだ「理念経営をやりたい」。けれど、社員にはなかなか納得してもらえない。さらに経営者としての成長。会社の成熟などについて、ついこの間まで非常に苦悩していました。
「とにかく良い経営者になりたい」という思いで、同友会への参加を続けるのです。
そこでは、いろいろな人にふれ合って、いろいろ学びを得ました。
例会、懇親会。横浜支部では懇親会後が本当の例会だという位置づけです。そこでこそ本音が出るのだというのもあり、とにかくに飲み会には出まくったとのことです。各委員会も、そこで出た雑談での知識。人脈ではとて大きかったのです。
承継問題についても.通常、相談料を払わなければならないのに、同友会には相談できる士業の先生が必ずいる。飲み会に参加するだけで相談できるという大きなメリットも利用しました。
鈴木氏が苦しんでいたときに神奈川の前障害者委員長からも
「鈴木君ね、自分が思うような組織にするには10年はかかるから。そんなに焦ってやらなくてもいいんだよ。もっと大きな気持ちで長い目で見なければだめだよ」
とアドバイスもらっています。
コマ大戦をやられているお兄さんからも
「自分が統一組織を作るのに8年かかった」
とアドバイスされていました。

それを聞いてから
「まだ2年しか経っていないのだから、そんなに焦る必要はないのかな」
と、少し気持ちが楽になってきたのす。
3代目の仕事とした銀行業務においては、必ずご自身で銀行に出向くようにしています。最近はネットバンキングとかもあり楽にはなったものの、古い会社ということもあり、窓口に行って手続きをしているようです。
人と人とが顔を合わせて接することを大事にしていかなければならないという思いからです。
社長を引き継ぐとすぐに2代目社長は一切そういう業務をやらなくなりました。
鈴木氏が1人で銀行窓口に赴くことを続けたことで、就任当初は鈴木氏1人では不安だからと先代社長も連名で連帯保証に加わっていましたが、1年で先代社長を連帯保証人から外すことができました。
もう一つ大きかったとされているのが経営指針の実行です。いろいろな社員の意見を聞きつつも、そこだけは譲れないといと出来るのが経営指針のいいところ。どういう会社を目指したいのか。いままで人の意見を切りすぎたなという反省を基に絶対にぶれることのない経営指針で確認することができました。
鈴木氏は共同求人での入社から経営指針を受けた経営者になるまで、同友会には本当にお世話になっているとのことから、これからも同友会に積極的に参加して、もっともっと学び、もっといろいろな人と出会ってネットワークをもっと広げたいと考えておられます。


報告者 鈴木幹男氏
会長挨拶
報告風景
グループ討論